現代人の記録と感想

記録と感想

自己分析1

山のようなタスクから解放されて早くも一週間が経った。

 

ここにきて何もでいない病が発症した。

症状から判断するに躁鬱の鬱である。(ちなみに私は自己診断で躁うつ病である。躁うつ病のチャックリストで全ての項目を黒く塗りつぶした過去を持つ。(チェックでよかったのに塗りつぶしたのはその時がたまたま鬱状態だったから?))

 

朝から晩まで焦っている。

「何かをしなければならない!」

「成果を生み出さなければならない!」

焦燥感の先にあるのは、何にも手がつかないという皮肉な現実。

 

積読している本を読み始めるも、

「あれするべきだな」「こんな本を読んでる場合か?」と疑問が常に頭に浮かぶ。

 

筋トレが全てを解決すると思いきや、筋トレ中にも

「帰ったらあれをやるべきだ」「筋トレに時間をかけていいのか」と集中できない。

 

自分はまだ何も成し遂げていないという焦りがある。

この焦りについて考えてみたい。

 

不思議なことに、タスク山積みの窒息状態では鬱は発症しない。

これは躁で乗り切れるのである。目の前のタスクを消化しないと人生が進まないor後退してしまう状況では自分の存在について考えるスキがない。

 

自分で好きなことができる時間ができた瞬間、全行動が止まる。

あるいは、同年代の優秀な人・結果を出している人が頭をよぎるから。

あるいは、自分に残されたチャンスが限られているから。

その瞬間、広大な宇宙にすべてを達成している最強人間が虚構として投影される。

思いつく限り全ての能力を手にしたホログラムを地面から眺め、にやりとする。

 

本来必要なのは、最強人間に到達するまでのステップを分解し、計画を立て、階段を上るように理想に近づいていくプロセスである。ある時間ではこの高さに到達しているべきたという飛行計画、継続的に高度を上昇させるエンジン、飛行機のようなものだ。

 

しかし、私が選択するのは、空高い理想へ向かって、その場で思いつく限りの方法を試し、ロケットを飛ばすという方法なのである。燃料を積んでいないため、一発の発射で到達できない場合は地面に墜落する道しか残されていない。

 

社会でいうタスクは、必要なことが、小分けになって提供される。飛行計画を用意してくれる。創作や自分の夢はそうはいかない。ただ宇宙にぼんやりと見えるだけだ。

 

自分で自分の夢への飛行計画を用意できる者のみが、夢を達成できる。

私に与えられた選択肢は、

①自分で計画を立てる。

②計画を用意してくれる補助サポーターを見つける

③一発で夢を達成できるような最強の発射台を作る

 

さ、③だ~~!!③しかないぞぉ~!

③で到達できるような領域は限られていると言われている。

しかし、もうこれしかないのだ。人類史上最高の発射台を作って、一瞬で最強の人間になってやる。えっ、こんな簡単な方法で年収〇〇!!になってやる。

 

でも、それよりもまずは、あれもしたいし、、、

あっ、でもこれもしたいし、、、まぁいいか、、、

とりあえず今日はYoutubeでASMRでも見て寝よう、、、

 

 

 

おしゃべり

昨日は日記をつけ始める一日目として設定したわけだが、

結局書かなかった。これには自分でも驚かされた。

懺悔の気持ちを込めてこうして朝書いている。

 

ある女性とおしゃべりとは何かという議論になった。

その人との共通の知人が「コミュ力」が高いというのが話の発端だった。

共通の知人は目的のないおしゃべりが得意である。

例えば、「何見てるんですか」「最近どうですか」「忙しいですか」などから会話を芋づる式に引き出し、違和感なく会話のラリーを続けることができる。

正直私はその女性の評価に驚いた。私はその人のことを「まともに話ができないふわふわした人間」と考えていたからだ。

 

私は議論が好きだが、おしゃべりが好きではない。

もちろん友達とくだらない話をするのは大好物である。

しかし、無意味に話題が移っていくだけで一向に発展しない話は耐え難く、そのため共通認識の少ない初対面の人との会話は、極端にふざけるか素を全く隠し通すかの二択になってしまう。

 

おしゃべり力がコミュ力に近いと考えられている世界観が彼女にはあった。

そしてそれを当然と考える女性が多くいることも容易に推測される。

私は「相手の話を理解し、自分の意見を正確に相手に伝える力」こそが

コミュ力であり、世の中に必要とされている事だと思っていた。

 

男性と女性の脳に生物学的差異があることは、身体の差異を見れば当然のことに思われる。そして、その差異が能力評価に影響しているのであれば、それは意識的に自覚し、評価されるように自分を変える必要がある。

 

思考の過程には主に3つの種類があると私は考える。

1類推:アナロジー、「~と言えば」

2論理:帰納・演繹、原因と結果

3枠組:そもそも論

おしゃべりはこれで言うと1類推が多いのか?連鎖的に話を移していく

それとも思考の過程から外れて常に新しい話題から出発しているのか?

うーんわかんない!

 

わかんないと言えば、この前情報熱力学を勉強したんだけど全然わかんなかったんだよねー、マヂホント意味不って感じだった。

 

熱力学と言えば、非平衡熱力学について「散逸構造」っていう本があるんだけどアマゾンで中古1万とかするところを、この前神保町で新品4千円で買えたんだよね!マヂラッキーじゃない?

 

4千円と言えば千円札四枚なんだけど、一定の確率でチンピラにカツアゲされる駅前の数学モデルを作った時、千円札を体の4か所にしまっておくのと、100円玉を体の穴という穴に隠し持つのとでは、家に着くまでにどちらの残高の期待値が高いんだろう。

 

千円札と言えば、野口英雄が今度北里柴三郎になると言われているけど、黄熱病から破傷風って感じだよね、マヂうけるんですけど。

 

柴三郎と言えば、柴犬ってかわいいよね。マヂポメラニアンあざとすぎ、柴犬のちょうどいい感じマジ最高、マジ最高、ほんともうなんか、最高みが深い、ぴえん。

 

柴犬と言えば、ハチ公前ってめっちゃ混んでて、待ち合わせ場所にするのには局所最悪解だよね。結局都会人はハチ公に集まらないから必然的に、ハチ公を中心により田舎者が中心に集まる「(待ち合わせ場所のハチ公との距離)と(住んでいる場所と都庁との距離)が反比例する」不思議な分布が形成されてるよね、マジ万次。

 

ジョン万次郎と言えば、、、

 

おしゃべり力がある人は自分の周りに少数いる。得られるサンプルデータから信ぴょう性を犠牲に帰納的結論を導くと、お姉さんや妹が兄弟にいる人は高確率でおしゃべり力が高い。

 

高いと言えば、、、

 

この話に結論はない。おしゃべりうまくなりたい。

三日坊主0日目

三日坊主を尊敬してやみません。

 

三日間、それは72時間という途方もない時間。

カップ麺が1440杯は完成することになる時間。

これだけあればどれだけの栄養失調の人間に「これはカップラーメンです。栄養は別にサプリメントや野菜などから摂ってください」と言いながら手渡せることか。

72時間という途方もない時間。

片岡鶴太郎さんがヨガのルーチンを16回済ませることができる時間。

鶴太郎さんの朝のヨガは4時間半かかる。なっがいなヨガ。

 

前置きはさておいて、私は半日坊主。

飽きが速いことで有名で、その名を天下にとどろかせたほどの実力です。

アキの速さで言えば、特に何もしなかった晩夏くらいです。

 

とりあえず明日から飽きるまで日記を続けてみたいと思います。

まずはスモールステップから、毎日とは言わないまでも

せめて四半世紀に一回、欲を言えば一週間に一回は更新したいと考えております。

 

これは自分との戦いです。

本田圭佑、ケイスケホンダの名言であります。

「敵はいない。本当の敵は自分だ」

じゃあ敵いるじゃん!

 

大切なことは二回言います。

これは自分との戦いです。

自分の内臓が破裂し、五臓六腑がその固体性を維持できなくなるまで

自分を倒します。それが戦いです。

エゴ防衛戦線

無思考で考えを文字に起こすと、文法、文章構成、美しさ、全てが犠牲にされる代わりに自分が無意識化で考えていることに少し近づける気がする。しかし、その分負担が大きい。負担というのも指への負担だ。僕はいつも身体の方に律速段階を有することが多く、うまく話せない時も口が回らない、文字が速くかけない(速く書いたものは情報量皆無の幾何模様となってしまう)。例に漏れずタイピングをするための指が全体の流れを断ち切ってしまう。ここで罠である文字起こしソフトを使ったところ、結局自分の考える文章がとてつもなくつまらない事に気が付いてしまう。身体に原因を擦り付け、精神には一切の責任を持ち込まないとい崇高な目的達成のため、私はこれからも遅いタイピング、汚い文字、回らない舌を仕方がなさそうに引きずる人生を歩む。

 

 

外見と中身1

外見を気にしてしまうのはなぜだろう?

 

自然界に鏡は無い。水面の反射はアイデンティティまで及ばない。自我までに影響する外見の同一性は社会から、つまり身の回りからの評価・反応から自然に形成される。相対的にどの程度魅力的かが自己に内在化する。

 

本来は他社に対してどの程度魅力があるかは他者の生まれ持ったpreferenceに規定され、其れ故関わった人の数だけ多様な評価が存在する。しかし、テレビやインターネット上でメディアが多数の人間に影響を与えることが可能になったため、周りの人間の評価の方針は一元化される事になる。これはメディアからすると多様化されているよりも価値観を一元化できた方が商業的に特になるからである。①はこれに従う事になる。

 

外見について考察する理由は、②の自分が他人の外見をどう考えるかを慎重に決定する必要があるからだ。上記のように、何も考えないとメディアの用意した心理的ルールに従い他者の価値観を借用することになってしまう。また外見が魅力的でないと感じるものはこの価値観から脱しない限り、本来ならば存在しない一元化されてた序列の下位に属することに甘んじてしまう。

博士号だけでは不十分

この記事の内容は『博士号だけでは十分! 〜理系研究者として生き残るために〜』の要約である。

 

本書はベテラン研究者 Peter J.Feibelman が理系研究者へのアドバイスをするというもので、実践的な手段から研究の志までが書かれている。

 

通読して学んだ内容を順に書いていく。

自分で読み直す為の文章なので、稚拙で乱雑な文章であることを予め謝っておく。

 

①必要な能力

研究者に必要とされる能力は、

   1、自分の目標と研究内容を繋げること

   2、自分の雇い主が求めているものを把握すること

 

②指導教官

指導教官は将来を左右する重大な要因である。判断基準は

   1、既に地位を確率している。⇨ ライバル視されないため

   2、広い利用できる人脈を持っている

 

③発表段階において

発表のはじめにアウトラインを聞き手に見せる必要はない。発表では自分の研究がいかに(潜在的に)有用なものかというストーリーのみを伝えれば良い。

 

④短い論文

大きな目標に向けて研究をしているとしても、論文は小刻みに発表した方が良い。論文の数が単純に増えるという理由と、他の研究者に発表を越される可能性が低くなるという理由がある。

 

⑤書き方

論文はたっぷりと書き、容赦無く削ると、内容が洗練される。

 

⑥面接にて

雇ってもらうときは、具体的な目標を設定を提示するべきである。

ジェネラリストであることは立派だが、雇う側は明確なビジョンが欲しい。

 

⑦プロジェクトの進め方

複数のプロジェクトを同時に進行すると、一方で行き詰まった時に、別のプロジェクトに取りかかれる。ずっと悩んでいるよりは、少しでも進展がある方が、研究者の心理的にも、雇う側の経営的にもプラスである。

 

もし興味を持ったら、是非本書を手に取ってみて欲しい。

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