FARCRY 5
steamで75%OFFの時に買ったFARCRY5をプレイした。
太古の昔にPS4でFARCRY4を遊んだのが楽しかったので買った。
舞台はアメリカはモンタナ州(田舎)。世紀末説を唱えるカルト集団が町を支配しているのを町に閉じ込められた主人公が武力でもって片付けていくストーリー。
終始ステルスプレイに徹した(狡い)。弓矢→サプレッサーマシンガン→スナイパーの順に武器を変えていった。ボス戦の前にすべてのカルト基地を開放していたため、基本強い状態で余裕をもって進めた(小心)。プレイ時間は30時間で一週目終了。オンライン授業の合間を縫って3日間で終わった。
以下ネタばれ
ジョセフ・シードの予言が当たったことも彼の過去の言動を正当化するものではないため、鬱展開ではないと考える。予言者なる者が現れ、彼の予言が当たった時、彼の存在を信じるか?僕は信じない。いかなる占い師・予言者が現れようとも彼等の言葉には耳を貸さない。適当な予想を言っておいて、当たった時はでかい顔をし、ハズれた時は静かにしている、そんなお遊びに付き合っている暇がないからだ。
大切なのは「変な奴は関わらない」事
本ゲームではOPにて教祖を捕まえるチャンスがある。通常プレイでは教祖に手錠をかけて連行中に信者によって阻止され主人公は町に閉じ込められてしまう。しかし、隠し展開が用意されていて、手錠をかけずに数分放置すると、主人公たちはカルト集団を見過ごしエンディングが流れる。関わらないという選択肢が用意されていたわけだ。因みに僕は何も知らずにこの展開に進みRTA記録5分を残した。
幸せとは?
ここにアランとラッセル、ショーペンハウワーの名言を引用
過去の偉人をもってしても幸福とは何かという問いの答えは簡単なものではない。
中ボス的存在のフェイスが麻薬を使って人を”幸せ”にしている場面があるが、これについては以前から考えていることがあったので興味深かった。脳内の物質が化学反応的に幸福を感じているならばそれは善ではないのか?脳内に直接針を差し込んでアドレナリンを安全に注入できるならば、それを批判できるのはどのような倫理的規範か?薬物が社会問題であるのは、もしかすると技術的な問題なのかもしれない。
情報の非対称性
ステルスプレイでは自分の卑怯さが強調された。
- 敵は自分が見えていないが、自分は敵の位置を知っている
- 敵は攻撃の開始を知らないが、自分は決めた時間に始められる
- 敵は自分の武器が強い事を知らないが、自分は知っている
思い返すと、自分の人生で楽しいと感じたのはこの情報的優位にたった時である。株の取引き、受験勉強、大学の定期試験、競技プログラミング。全て情報戦で買った上で、それをなぞる様に他を出し抜く。そんな人生だった。これをかっこよく言い換えると戦略や作戦となるのだろうか?先に情報を持った者が持たざる者を徹底的に叩きのめす。
資本主義ではこの構図は繰り返される。往々にして資本に情報が集まる傾向にある世の中なので、情報を最初に持っている者がさらに情報を持つ。これはネットワーク科学的にはマタイ効果ー
ハブ的存在が自然発生しネットワークの媒介になるーにて説明可能だ。
これが世の中の仕組みだとすれば私がステルスプレイを好むのは、無意識化でこの社会構造を意識し、情報の有意な立場でポジションを取ろうとする生存本能であると説明できる。ゲームプレイ一つで人間の適応行動が発現するのは面白い。
上記は全て戯言で、ロケットランチャーとマシンガンで正面突破するのが怖くてビビり散らしながらコソコソ遊んでいただけです。調子に乗ってすみませんでした。これからも部屋の隅っこに三角座りして、角に集まった一抹の埃を食べて生きていきます。